エム恵さんの作品2「満ちて死を」

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真冬の、夕日が落ちそうな海辺に、彼女は風でなびく髪を押さえながら立ち、さざ波を眺めていた。

潮が満ち始めていて、彼女の足下にも波が届くようになっていた。

「そろそろ帰ろうかしら…寒くなってきたことだし」

彼女は熊のように大きな毛皮に身を潜らせ、停めた置いた赤いアルフモフ方に歩き出した。

「ちょ、ちょっと待ってください」

私は必死に回らない首を回しながら、彼女を呼び止めた。

「…ちゃんとくわえておかないと死んじゃうわよ」

彼女は振り返り、口元に魔性の笑みを浮かべながら私を見た。

水中メガネ越しに煙草に火をつける彼女を見つめる。

口元の、シュノーケルのゴムの匂いがやけに気になった。

「そんな目をしても駄目よ」

首だけ出した状態で私は砂浜に埋められていた。

潮はいつの間にか私の目の前まで来ていて、波が来る度に私の首を撫でる。

「た、たた助けてください」

私は必死に土中でもがくが、まるで身動き出来なかった。汗だけが汗腺から多量に分泌する。

「大丈夫よ。ちゃんとシュノーケルを噛んでいたら…朝までの辛抱よ」

私の視界から彼女が消えると、彼女の砂を踏む音だけが聞こえ、その音が止むと車のドアが閉まる音がした。

「お願いします、お願いします」

そう叫んでいる間にも波は私の首を越え、口元まで届くようになっていた。

塩味に恐怖を覚える。

これからは、食卓の鮭を見てもトラウマに苛まれるだろう。

私は一度唾を飲み込み、覚悟を決めシュノーケルをくわえた。

十分も経たない内に海水は私の口を覆い、鼻を覆った。

その間彼女はおそらく車の中から私の様子を見ていたのだろう。

「じゃあ、また潮が引く頃見に来るから…生きていたらご褒美をあげるわ」

遠くにその声が聞こえた後、エンジン音と共に車は去った。その声も音も、耳まで達した海水によって朧気にしか聞こえなかった。

そして完全に私の頭を海水が覆うと、恐怖は最高潮に達した。

もう私の目の前には、暗闇しかなかった。そして異常な息苦しさに襲われた。

「これは罰なのよ。お分かりよね?お利巧なお前なら・・・だったら何の不平も唱えられないはずよね。そうでしょ?だったら素直に罰を受ける事ね…もしもお前がこの罰を克服したのなら、もう一度私の側に置いてあげてもよくてよ」

何も聞こえない水中で、彼女の言葉を思い出した。

その言葉だけを支えに、私は必死に耐えようと試みたが…大自然の深い闇に襲われる恐怖は、私の得意技である苦痛を快感に変換する方法であっても、どうやら無理のようである。

意識は、過去をめぐって行った。

「おはよう、私の愛しい坊や。全く、しぶとい子…」

その声が聞こえて、私の頭に黄金の液体がふりかけられた時、冷え切った体に、久しぶりに人肌の温度を感じた気がした。

(了)

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